趙起 (北斉)

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趙 起(ちょう き、生没年不詳)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人官僚は興洛。本貫広平郡[1][2]

経歴[編集]

幽州録事参軍の趙達の子として生まれた。普泰元年(531年)、高歓が起兵して段栄定州刺史となると、趙起は段栄の下で典籤となり、奉車都尉に任ぜられた。東魏天平年間、相府騎曹となり、中散大夫の位を加えられた。高澄が高歓の後を嗣ぐと、趙起は建州刺史として出向し、侍中に累進した。高歓の代から相府騎兵二局をつとめ、十数年にわたって相府の兵馬を監督した。北斉の建国後、宮廷で九卿や侍中の位にあったが、本官のまま軍事の監督権を手放さず、文宣帝の腹心としては二張に次ぐ地位にあった。西兗州刺史として出向し、弾劾を受けて蟄居させられた。証拠がなかったため、1年あまりして放免された。河清2年(563年)、晋陽に召された。河清3年(564年)、祠部尚書・開府儀同三司の位を加えられた。天統元年(565年)、太常卿に転じ、琅邪郡を食邑とした。天統2年(566年)、滄州刺史に任ぜられ、都督六州諸軍事を加えられた。武平年間、在官のまま死去した[3][2]

脚注[編集]

  1. ^ 北斉書 1972, p. 362.
  2. ^ a b 北史 1974, p. 1996.
  3. ^ 北斉書 1972, pp. 362–363.

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4